蘭 光生 牝 檻
目 次
紙の檻
華麗なる崩壊
猟色の肉市場
教え子に捧ぐバラード
(C)K. Ran
◎ご注意
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。
個人利用の目的以外での複製等の違法行為、もしくは第三者へ譲渡をしますと著作権法、その他関連法によって処罰されます。
紙の檻
1
ベランダのガラス戸を開けると、ムッとする熱気とともに、蝉の鳴き声が火に焙られたかのようにザーッと部屋に流れこんできた。
クーラーでほどよく冷やされていた室内からは想像できないむし暑さである。
「やっぱり、レースの半袖にしたほうがよさそうだわ……」
外出に何を着ようかと、さんざん迷ったあげく、真夏の外の様子を知ろうと、ガラス戸を開けたのだった。熱気がそれ以上入らないように、あわてて戸を閉めると、琴美はハンガーから黒のレース織りの半袖を外して袖を通した。ブラウスはアイボリー・ホワイトのノースリーブで、スカートは黒のシルク地のフレアスカートである。首に真珠のネックレスをかけ、プラチナのブローチを黒の上着の胸もとにつけた。
今日は午後三時に、銀座で大学時代の友人に会う約束がある。それまでの二、三時間、久しぶりの銀座なので買物でもしようかと思って、まだ昼前なのに出かける仕度をしていたのだ。
腕時計をはめながら時刻を見ると、十一時少し前であった。あとは、もう一度戸締まりをして……。
中規模の貿易会社を経営する夫は、西ドイツから訪れた取引先の人たちを案内して、北海道や京都の観光旅行に出かけたばかりである。一週間ほどは帰れないはずだった。若いお手伝いさんも、昨日から一週間ばかり、お盆の休暇をとって田舎に帰っている。都心の高級住宅地にある法月琴美の広い邸は、だから、今日からしばらくの間は琴美ひとりきりだった。
そうだ、今日は晶代にも会うんだわ。帰りにうちに連れてきて泊まってもらおう……。久しぶりに会うクラスメイトの顔が、次々に浮かんだ。もうみんな三十二歳になったのよね。四人のうち結婚していないのは友里子だけ。三人は結婚したけど、子供のいないのはうちだけか……。
大きな姿見の前で、琴美は全身を映したまま、くるっとひとまわりした。
中肉中背だが、均整のとれたプロポーションは、もっと背丈があればファッションモデルとしても立派に通用するほどである。脚が長く、上体が小作りなので後ろ姿はフランス人に間違われそうであった。
苦労して選んだ黒い服装が、色白の肌をことさらきわだたせている。腕の肌を焼かないためにも、今日は薄い長袖を着たいところだったが、この暑さではと、半袖にしたのだった。
もう一度、戸締まりを調べようと思った時、深い庭の木立ごしに、のんびりしたスピーカーの声が流れてきた。
「毎度おさわがせいたします。おなじみのチリ紙交換がやって参りました。古新聞、古雑誌……」
琴美はそれを聞いたとたん、家にある古新聞の山を思いだした。主要新聞と経済専門誌の四誌をとっているので、あっという間に古新聞の山ができてしまう。保存癖のある夫は一カ月前までの新聞はきちんと保存しておくように言いつけてあるので、どうしても古新聞の山は消えないのだ。
チリ紙交換はもちろんお手伝いさんの由美子の仕事だが、交換に出そうと思ってキッチンの隅に積んであった新聞の山を琴美は思いだしたのだった。
そうそう、あれを出しておいてあげよう……。そう思うと、琴美は外出着のまま、勝手口からサンダルをつっかけ、裏の木戸から道路に出た。ずっと向こうから、チリ紙交換のトラックがのろのろ近づいてくるところだった。
琴美の姿を見ると、車はスーッとスピードをあげて近づき、彼女の前でとまった。運転席から琴美を見た中年の回収業者は、あいそ笑いをしながら、頭をさげ、ドアを開けて出てきた。
「どうも、毎度ありがとうございます」
琴美も軽く会釈すると、
「古新聞が山ほどありますのよ。束ねてないんだけど、もっていっていただけますか」
「ええ、そりゃあもちろん。それにしても、今日は暑いですね」
汚れたTシャツの背中が汗で濡れていた。首に巻いたタオルで顔や襟もとの汗を拭いながら、男は勝手口に向かう。
「いつものお手伝いさんは、お盆休みですか?」
「ええ、そうなの」
男は手にビニールの紐を一巻きと、今時珍しい竿秤を手にして勝手口から中に入った。
琴美は新聞の山を指さし、
「そこからあがって、あれをもっていってくださらない?」
「お安いご用で」
男はサンダルを脱ぐと、スリッパもつっかけず、キッチンにあがると、隅のほうの新聞に近づく。
「お手伝いさんがいないと、この広いお邸には昼間は奥さんおひとりですか」
「まあ、お邸だなんて……たまにはひとりもいいものですのよ」
「今日はどこかへお出かけで?」
「ええ、銀座へお買物に……」
男はビニールの紐をロールからくるくると引きだしながら、新聞を束ねにかかっている。
琴美はぼんやり男の手つきを見ていたが、ふと思いだしたように、
「そうそう、何か冷たい物でもさしあげましょうね」
言いながら、冷蔵庫のドアを開けた時、男が、
「あれ? 奥さん、これ、なにか重要な書類じゃないんですか?」
「は?」
振り向くと、男が新聞の間から取りだしたのか、白い紙をヒラヒラさせて琴美を見ている。
「あら、何かしら?」
琴美が男の前に近づき、紙のほうに手をのべたとたん、男の大きなにぎりこぶしが、琴美の鳩尾にくいこんだ。
「ぐ……」
息のつまるような鈍痛に、琴美は呼吸をとめたまま思わず腹を押さえて床の上にへたりこんだ。
体を二つに折り、首を垂れた琴美のうなじに、今度は男が手刀を振りおろした。
「うっ!」
めまいのするようなショックを受けて、重心を失った琴美は、アスタイル張りの床の上に突っ伏してしまう。鳩尾をなぐられた苦しさ、首すじを打たれた痛さで、声も出ず、膝を突き、両手を腹に当てたまま、上体を折って床に突っ伏している琴美の髪を、男はわしづかみにすると、ぐいと顔をあお向かせた。
「むっ!」
思わず開いた唇の間に、いつの間に取ったのか、流しの上にかかっていた小さなふきんを丸めたものを、さっと押しこんできた。
「むむむ……」
思わず口から吐きだそうとする隙に、男は床に置いてあったビニール紐のロールから紐をくるくるとたぐりだしながら、それを琴美の上下の唇の間にぐるぐると頭をひとまわりさせては巻きつけていく。
「むぐっ!」
腹を押さえていた両手で紐をほどこうとしたが、もう手遅れであった。
男は数巻きしたビニールの紐を、琴美の頭の後ろでギュッと思いきり力強く引き絞ると、なれた手つきでかた結びにしてしまった。ビニール紐といっても、別に縒り合わせたものでなく、薄いポリプロピレンの帯を、五ミリくらいの大きさに折りたたんだだけの包み紐である。
「むぐぐ……」
鼻孔からくぐもった悲鳴をあげながら、両手を頭の後ろにまわして、なんとか結び目をほどこうともがいている琴美の体を、男は今度は思いきり強くあお向けに突き倒した。
|